一ヶ月前くらいから読みついでいた長編小説を、風邪で寝込んだ一週間で一気に読み終える。

山崎豊子さんは58年に直木賞を獲った作家で、よく知られた作品には『白い巨塔』とか『華麗なる一族』とかがある。テレビドラマの原案になったタイトルがこのほかにもいくつかあっておおい。

図書館には新潮文庫でひととおりの作品が揃っていて、どれも上中下巻とか全四巻とかになっていて、長大な志向性をもっておられるよう。社会派のテーマは昭和の後半から平成のはじめにつれて勤め人の男性らをいかにも熱狂させそうな取材対象をもっていそう。

『二つの祖国』は、ロサンゼルスの日系人たちが真珠湾攻撃を転換点にしてアイデンティティを問われ、またみずからに問いかけるありさまを冒頭におく。ひどく乾いて燃えるように暑い荒野の収容所で、なくしたスプーンひとつのために日系人たちがアングロサクソンに虐待される。老人だろうと、地位のはっきりしたものだろうと関係なく。

天羽賢治は、リトルトーキョーの邦字新聞で記者の仕事をしていた。鹿児島からアメリカに渡ってきた両親のあいだに生まれて、彼もまた中学から大学まで日本の教育を受けた。特に薩摩武士の末裔ということをほまれにおもって、人一倍の薩摩人で、人一倍のロサンゼルス人だった。日系人全体が国家的迫害を受けなければいけないことに慄然としながら、卑屈にしたり阿諛追従しないで西郷隆盛みたいに実直であるところがかえってアメリカ軍人の目にとまって、軍のための日本語教育プログラムの教官として収容所のなかでリクルートされる。

チャーリー田宮は、賢治とおなじ二世であって、おなじほどには日本への愛郷心はない。野心家で、使えるものは使うし、使えないものは切る。強制収容所のなかでは、はじめから管理部門に取り入って特権をほしいままにして、そうしない平民はバカだとうそぶく。やがて野心は彼を軍服に着替えさせてマッカーサーのそばに送り込み、終戦はアメリカの軍服を着た日本人として広島を訪れさせる。

井本梛子は、賢治の親友にしてチャーリーの恋人。賢治が鹿児島で多感な時期を過ごしたように、梛子は広島で過ごしたことがあるから、愛郷心は濃い。強制収容所でチャーリーと結婚式をあげるが、その野心のために収容所の両親を見捨てることと軍人の嫁になることを引き換えのようにされてしまう。すれ違いはすぐに結婚を終わらせて、悲嘆の両親が国へ帰ろうと覚悟するのに付き添って帰る。そして原爆の光は家族を痛ましく照らす。

天羽勇は賢治の弟で、鹿児島の実家はおとずれたことはない。強制収容所にいれられたのはアメリカに忠誠を誓わない両親のような日系一世がいるからだと信じて、われら二世は収容されてもアメリカのために尽くそうといって、収容所から兵隊に直接志願して出ていく。やがてヨーロッパ戦線に出動する。そこではナチとの戦いではなくて、ナチに人質にとられたテキサス人を救出するための捨て駒になることが任務なのだった。

天羽忠は賢治と勇のあいだの次男坊で、開戦時に日本で学生をしていたから、アメリカ国籍はなかったものにされて、日本軍に徴集された。兄と両親が彼の無事ばかりを祈っているとき、彼自身は満州とフィリピンを戦いわたった。アメリカで生まれた履歴が日本軍人にはふさわしくないと差別する目を振り払うように、ひとより多くの努力を日本軍のためにはらって地獄の戦線を戦っている。

劇中人物はこのほかに百名以上いるとき、これらロサンゼルスの日系二世の青年たちこそ、心のなかのふるさとはふたつ、日本とアメリカを遠くにながめて、しかも巷間の俗情がそのひとつ、どちらかひとつだけに 100% の愛をみせろと絶え間なくせまるのに困り果てて、諦めるように受け付けたり、覚悟をもって拒絶したり、いまはまだと宙吊りにしたりする。いちど決めたら精算済みとはならず、機があるごとになんども葛藤の泥沼に引きずり込まれて、引きずり込んだ側のものはアイデンティティに疑いをもちもたれるのがどういうことも知らないでさっぱりした身なりのままでいる。まあ、不条理物語であります。

強制収容所に行くまで、異常事態にいたるための時間。それから強制収容所のなか、異常事態そのものの時間。それらの時間をつないで、極端な振れ幅のある行動規範をもったものすごい数のひとびとの群像劇として、ひとつの文体のもとに提示したというのはおおきな小説の達成だとおもう。はじめの一巻で強制収容を扱っているのがいちばん重くて、容易に読み進めることができなかった。文章のなかにむずかしいことは書いていないのに、異常な状況を読んで咀嚼するためには、ちょっとだけ噛み砕けば済ませられるなんていうことはちっともなかった。読み応えはおおいにあった。

第二巻ではフィリピン戦線、第三巻と第四巻では東京裁判をねっとり描いていくことになる。だんだんと実録敗戦小説の体裁になって、視点人物が戦犯たちに同情せずにはいられないことはよしとして、結果的には現代自民党的な歴史観を肯定する代表的なやり口になっているようにみえる。読んでつまらないということはないけれども、小市民の群像ドラマだったはずの小説が、いつのまにか国家のための大きな物語に塗り替えられて、一貫性の立場からはいくぶん乱れた。

主人公の葛藤は、その行き着く答えはきっと自害ひとつだろうなとかなり手前からちらついていた。で、小説はそのままひねりのない幕引きをしてしまった。このあたりは通俗小説の書きぶりになった。想像力のはばたきを求めない読書家にとって、これくらいはちょうどいいものであることもいえそうではある。そうでなければ、まずい予定調和になる。もうすこし抽象的で半開状態の終わらせかたもできたとおもうけれど、事実は俗情におもねって余韻のない終わりかたをした。

まっすぐ感傷に訴えかけてページを繰る手を止めさせたところもあった。原爆に打ちひしがれたものは呆然と来しかたを振り返って、カリフォルニアの、必死の努力でそこから抜け出した、インペリアル・バレーのメロン栽培からもういちどやりなおすのでも構わないから、お願いだからもういちどやりなおすことができればと願って嘆いた。極貧からやりなおすことはできても、原爆が焼いたものはもうやりなおすことができない。それをいうときに、それまで苦しみの象徴として使っていた貧農暮らしの心象風景をとりだして、それがまだしも豊かな世界だったと言わせるのが苛烈な痛みを伝えた。説明が興を削ぐ気もするけど、ここがいちばん好きだったとおぼえておきたいのはこれに尽きるから、このままにする。

不幸なすれ違いを引き起こしていて疎遠にしていた兄弟が、メロドラマチックな盛り上がりを欠いたまま和解するのもよかった。男同士の仲直りはドライなくらいでよくて、そこを冗漫にしないで伝えるのは巧みとおもった。

東京裁判のことを、もともと主題にしていたはずの二世の群像からおおきく逸脱しても極端に細かく描いてある。主題を帰納すると、日系人の強制収容と日本人戦犯の裁判過程がいずれもおなじ問題系に属しているという主張で筋を通さないといけない。被収容市民たちとA級戦犯たちを、どちらもアメリカの潜在的被害者であるといって同一視するのは、かなり無理筋にはみえる。強制収容所の話題は結果的に、全体のうち第一巻だけに押し込められて不当に霞んでいるようだ。

どうにも敗戦処理でアメリカに好き勝手されたという集合的被害者意識が動機の第一にあって、みじめな屁理屈を正当化する斬新な切り口として日系人の強制収容はじめ排斥運動のことを都合よく利用したようにみえる。たしかに小説を書く手は、日本への同情が濃ければ善玉、薄ければ悪玉のように性格を単純に描きわける傾向があって、日本でなら俗情におもねって売ることができてもそうでなければわいせつ本じみているところはある。

日系人の歴史を右翼思想にそれとなく適合できるように語り替えてメインストリームで成功した通俗小説、というあたりに位置づけるのがふさわしいあたりにおもう。小説そのものが失敗しているわけではなくて、むしろ視点人物の実直さが小説を統合しているために論理の飛躍はうまくごまかされている。主題の政治的すり替えを疑わせないまま成し遂げているのがなんとも狡猾なわざにみえる。