中世、北イタリアのカトリック修道院で暗い事件が起こる。一夜ごとにひとりまたひとりが殺されるやりかたは、ヨハネの黙示録の啓示イメージにおそろしく沿っている。

ひとつめの犠牲は吹雪の荒れ狂った翌朝、凍った雪に血をぶちまけるように肉を切り裂かれて死んだ。ふたつめの犠牲は豚の生き血を満たした土器に頭から突っ込んで溺死した。みっつめの犠牲は沐浴槽の底にしずかに沈んだ。よっつめの犠牲は渾天儀で脳天を打ち砕かれた。いつつめの犠牲は千匹のサソリの毒がおとずれたと言い遺してたおれた。このようにして猟奇殺人は進み、神のわざわいのおとずれを印象づけようとする。わざわいはみせかけの演出か、ほんものの奇跡か? なにか卑しい魂が神を僭称しているのか、あるいはアンチクライストはほんとうにおとずれたのか?

語るものたちは中世史のなかの状況を生き生きとおよぎまわって、それを読むものはえらくいりくんだ怪奇事件に論理が迫ってはかわされる様子にときめきながらページを繰ることになる。そしてこのすばらしい散文作品は、本筋の殺人事件への執着をときおりゆるめて、余談に余談を継いで語る。

同性愛のゴシップが若い修道士たちをこそこそと騒がせる。異端審問が人間のなかに悪魔を作りあげる。貧農の娘が僧院厨房からモツの分け前をえるために身体を売る。イタリア出身の僧侶たちは外国人が文書館長をつとめるのを苦々しいものとみなす。若い語り手がはじめての性的恍惚を得て、それがどのような種類の愛か罪であるのか胸を悩ませる。

圧巻の筆力といっていい厳粛さをみせるのは、まず「第一日、六時課」であらわれれる聖堂入口のティンパヌムを修飾する彫刻のおそろしく細密な描写で、これはホメーロスがアキレウスの盾をことばだけによってすべて語ってみせようとした手本にならっての雄弁にみえる。また「第六日、三時課」は視点人物が夢のなかを冒険するままにみた幻想をそのままにあらわして、カーニバルの無礼講を叙事詩のように語りつくす。小説がそこからアリストテレースの詩学をめぐる最後の議論に向かうと、劣情の列挙さえ古典の風格をともなってみえる。

一年の終わりとはじまりにゆっくり読ませてしあわせに感じさせるおおきな小説。とりわけ固有名詞の数のおおさは忙しい頭にはしまっておけない規模のもので、これ一冊だけを読むのに朝から晩までおもいきり時間をかけるのは贅沢なようで、それなしに読みおおせるのはむずかしかったようでもある。

舞台はヨハネス22世が教皇の座にあった時代におかれる。小説のなかに姿こそあらわさないけれど、この男にかかわるうわさ話が僧侶たちを饒舌にさせるところが気に入った。

フランス王が教皇を襲撃して、官僚組織をローマからアヴィニョンに移した。アヴィニョン捕囚とこれを呼べば、教皇は被害者のようにみえる。ヨハネス22世はしかし被害者と呼ぶことをためらわせる描写をあたえられる。拝金主義者、聖職売買者、およそ誠実な心では許すことのできないやりかたで蓄財にはげむ腐った指導者。

他方で、聖書のおしえに忠実であろうとするものは、彼らだけでも清貧に生きることを願った。イエスと使徒たちはただ必要な財産を折々に「使用」したにすぎなく、所有のための財産はなにひとつ「私有」しなかったと理論化をこころみた。なにひとつ持たずに生きることの承認を聖書にもとめようとした。

教皇はしかしそれが不快だった。この権力者はみずから望むままの正義を執行した。服従せざるものはたちまち異端だ。次々に犯罪者を作り出しては浄化を試みた。私有財産を巡る議論をこう判決した。財産を「使用」しながら「私有」しないと主張することは罪である。清貧とは虚偽であり、罪である。乱れた権力が理性と理想をかき暗す。

たったひとつの頼みづなの聖書さえ、教皇が教皇自身の満足のために故意に読み違えて堂々としているやりかたの、教皇を元首に、聖書を憲法に読み替えると、現代政治のつまらなさを未開の神学論争に織り込んで語っているようにもみえる。しかもそれは現代が不当に劣化しているということを嘆いているのではなくて、現代と中世の距離はさほど遠くなく、ひとはいまもって未開のなかに生きていることを正確に指摘しているようでもある。

しょうもない世俗の権力のことが心をざわめかせることはたしかにある。永遠の立場からすればどうでもいいことにはなる。

いまとなっては誰もがヨハネス22世のことを語りたがる時代ははるかかなたにある。いま、いったい誰がどこの何代目であるかももはやはっきりとしない元首のことについて、みんながそれを語りたがるようにみえる。勝手に語り直されていくだろうそれらのことよりも、さらに見えづらい機微、記憶されづらい些事のことは、どうやって残っていくでしょう。ぼくらみな中世の未開のなかにあるときに、どうすれば激しい俗情のとりことならずに、豊かで清らかな永遠の静かさにひたってあれるでしょう。

おそろしい騒ぎを主題にとることによって、物質世界をはなれた修行と読書の静かさについてひそかに述べる逆説もどうやらそのなかに含んでいるおおきな小説を読む。