夜明け前に車を出して、氷点下で吹雪がワイパーを凍らせたのを手でほぐしながら空港まで妹を送り届ける。午後、昼寝する。
起きたら居間のテレビで宮崎駿のドキュメンタリー映画をやっていた。十二年前くらいのものらしいのは『風立ちぬ』の製作に密着しているのからわかった。
数え切れない枚数の草稿とは別に、オフィスにもアトリエにも、肉体と視線のとおる動線のうえにカードが留められてあるのをみた。簡潔にデザインされた手描きのイラストは、たとえば「珈琲をタダで飲もう!」「原画チェックがんばってね」「NO!/原発」とメッセージを添えてにぎやかだった。
新聞の切り抜きとか写真のプリント資料にまざって、それらのイラストは職業を職業らしく豊かにしているようにみえた。あるいはディスプレイに付箋を貼り付けたり、工事現場にスローガンを掲示するのに似ているようで、誰かに命令されてそうするのではなくて、当意即妙のイラストとタイポグラフィを手作りすることに精神のゆとりをみた。
絵心のないこちらがわからみると、どれも充実した小品の風格があるけれど、あれらはきっとただのメモで、イラストは手なぐさみにより近い。とはいえ、現実的な機能のためのメモでさえ、清書してちいさな絵を添えればたちまちあざやかに立ち上がって、警句のように光りはじめる。
メモを清書してはいけないことはない。清書を成果と呼ばなければいけないことはない。それでいながら、メモはそのまま小品たりえる。
これはいいな、とおもって、カラフルな鉛筆かペンを用意して、詩と絵のまざったカードをかんたんに作りはじめる。それをこの年の「やってみたいこと」のひとつにする。
ウィリアム・ブレイクにとって絵と詩は不可分だった。のちの時代がふたつ以上のものをわけてしまったのは、単に大量印刷のため、複製による商売のためにおもわれる。いまではまるで「複製できないものに価値はない」みたいにさえみえてしまって、紙切れひとつを彩飾するのは不経済としていたかんがえを自分のなかに発見する。
取り外したいのはその曲がった価値観による自己検閲だ。それをこの年の「やめたいこと」のひとつにする。