木曜夜のレイトショーで、ジェイソン・ステイサムの新作アクション映画をみる。
未明の雨が打ち付けるトラックの運転席で飛び起きるレヴォン(ジェイソン・ステイサム)は、そのまま運転席で質素な食事と歯磨きをして現場に向かう。建設現場で監督をしている。みな有色人種とみえる職人たちのひとりが、これは妻からあなたへ贈り物ですといって、保存容器にいれた食事をひざまずいてレヴォンにわたす。
金のトラブルから彼の現場にマフィアの下っ端がやってきて職人をボコっているのをみると、レヴォンはかえって敵をボコり返して部下を助ける。勤め先の建築会社の令嬢ジェニー(アリアンナ・リヴァス)は、それを陰からみて彼の制圧能力に驚きつつも、過去の経歴に深入りはしないようだ。
そのジェニーがさらわれてしまったと社長(マイケル・ペーニャ)はレヴォンにすがる。警察はなにもしないだろう。もうそういうことはしないんです、とレヴォンはいちど固辞しながら、まるでやめる気なんて最初からさらさらなかったみたいにロシア系マフィアの人身取引ネットワークを末端から幹部まで順番にぶち壊していく…
殴り合いと撃ち合いの爽やかさ一辺倒というのではなくて、マフィアのネットワークに潜入して捜査するやりかたのあざやかさを見せる映画でもあるようす。そして表の顔は雇われの現場監督にすぎない男がなぜか組織犯罪の繊細なプロトコルに精通していて、彼が悪とみなすものであればためらいなく殺害できるし、それによってマフィア組織をかき乱すことができることがもうひとつの爽やかさになっている。
レヴォンのことを元軍人と造形するときに、そのかつての所属はアメリカ海兵隊ではなくて、イギリス海兵隊ということになっている。ステイサムの国籍もまたイギリスにあるためのよう。そしてイングランド人がアメリカにあって、元同僚の助けを陰で受けるとき、イラク戦争で米英が協力した経緯が補助線として示されてもいる。
トラックに据え付けた望遠カメラはどでかい。情報端末はスマートではない。銃器は一、二世代前のものか、そうでなければいっそう古く、フセイン政権から奪ってあった冷戦の遺物だ。勧善懲悪のヒーローをみせるのに、最先端のドローンで狙い撃ちしたりスマートフォンを爆破して暗殺するのは似合わない。それでは超人的な肉体の技芸はたのしめない。
そもそも、あの『アメリカン・スナイパー』こそイラク戦争の英雄の姿として遠隔狙撃手をとりあげて、しかもそれを英雄譚というよりは悲劇として映してみせた。イラクにおもむいたから英雄の素質を得られたという因果はたんなる幻想のようでもある。まあ、そもそも戦争が英雄的であったためしはないわけで、そんなことは自明なようでもある。
そうやって眺めてみれば『ランボー』とか『コマンドー』みたいに身ひとつの暴力アクションがいくらか時代錯誤であったという以上に、この『ワーキングマン』も時代錯誤としかいえない主題をとっているようにみえる。肉弾アクションをみせることのおもしろさが、時代劇の殺陣をみせることのおもしろさにどこか似通っていることに気づかせる映画。とはいえ、この映画の主人公もそれを演じる主演俳優も、もうすぐおじさんとも呼んでいられずおじいさんになるような世代になるとき、アクションスターがなお現役でいて、その新作をおがめるというのは幸福といっていいとおもう。
かつての凄腕の英雄が平凡な生活にかえって静かにしていたのに、ロシア系マフィアがそれを不用意に刺激して壊滅近くに追い詰められる、というプロットは『ジョン・ウィック』にそっくりだった。そうかんがえたのは映画を観終わってしばらくしてからのことで、あちらではキアヌ・リーブスが大暴れするのは幻想世界のフィクションであるということを前景化しているのに比べて、こちらではジェイソン・ステイサムが大暴れするのは、もしかしたら現実でもこんなことはあるかもしれないと信じさせる、たとえば「人身取引」とか「薬物売買」とか「腐敗した警察」みたいな悪が見え隠れするシカゴでのことで、それらの細部が映画の味をおおきく変えている。
ロシア系のひとびとばかりを悪に仕立て上げるのは、十年前くらいであれば「アメリカ映画はいまだに冷戦の敵とばっかり戦っている」「いつも仮想敵にされるロシア系のひとがかわいそう」と揶揄したり憤慨したりする意見もおおきかった記憶がある。この五年のあいだにふたたびロシアを悪者に見立てるのがふたたび正統の立場に復帰したのを嗅ぎとれば、映画ではなくて時代が変わったことを直観させる映画でもあった。