北四番丁のミニシアターで映画をみる。デビッド・リンチの没後一周年で、一週間だけの復刻上映をしている『ストレイト・ストーリー』をみる。99年公開。

宇宙をまずみせる。星のかぞえきれないきらめきが画面いっぱいにうつる。地上から夜空をみあげるショットではなくて、銀河のどまんなかを泳ぐようにみせる。星のなかをカメラがゆっくり、ごくゆっくりと進んで、画面の端から星はみきれていく。かといって、画面のまんなかの星がだんだん近づいてくるようすにもみえない。

それからカメラは穀物畑をみおろして飛び回る。おおいなるトウモロコシの実りをトラクターが横切って、おおいに煙をまきあげながら、あとに一条の道をのこすのをみせる。寄ってみればそれはいちどに何十列ものトウモロコシを刈り取ることのできる機械が自然を根こそぎになめとる足並みにもみえる。引いてみればそれは果てしなく続く畑のなかにはかない跡をのこしただけにもみえる。

昼下がりの庭、芝生。太った婦人がやすい寝椅子で肌を焼いている。ゆっくり下降するカメラはディテールをなめまわすというほどの執着ももたずに壁に沿ってあるいて、いつのまにか勝手の小窓をみつめている。平淡な田舎暮らしの小窓ごしに、ガタンと音が聞こえる。しかしカメラはそれにさえどこか無関心で、小窓の向こうにはしのびこまない。

アルヴィン・ストレイト(リチャード・ファーンズワース)は腰をやって横たわったまま、小一時間も黙って天井をみていた。酒場のともだちが遅刻をとがめにやってきてはじめて彼が倒れたのをみつけて、病院にもいかないというのを娘のローズ(シシー・スペイセク)がひきずって受診させる。視力低下。糖尿病。肺気腫。ボロボロの身体を医者はとがめていう。このままでは大変なことになりますよ。アルヴィンは反感をみせていらだつほどのこともしないで、歩行器の押し売りは拒否して、それまで一本だった杖を二本にだけ増やして帰る。家ではローズにいう。お医者さんはこのままいけば百歳まで生きるといっていたよ。

この誇り高さと偏屈な頑固さの重なり合った老人が、アイオワ州ローレンスからウィスコンシン州マウント・ザイオンまで350マイルの旅をする。マウント・ザイオンにはなつかしい弟がいる。脳卒中で倒れたらしい。もう十年も疎遠になっている。カインとアベルみたいなものとアルヴィンはいって、それよりたくさんのことは言わない。二ヶ月もかけて旅をする。芝刈り機で荷車をひきずって旅をする。運転免許はもっていないから。荷車ひとつに寝泊まりして、身ひとつのキャンプをしてのろのろゆく。

妊娠して家出した少女に食事と毛布をあたえる。追い抜いていった車が鹿を轢き殺すのをみる。自転車大会の集団がびゅんびゅん追い抜いていくのを見送る。エンジンが壊れて丘を転げ落ちる。双子の整備工が修理代ぼったくろうとするのを一枚上手にとる。いにしえのフランス人墓地の横でねむる。

あうひとごとにすこしずつ語る。行政がローズから四人の孫を奪っていったこと。塹壕のなかで眠るのに比べたらキャンプのまだしも快適なこと。復員して酒の誘惑にかられたこと。夜の森のなかでかすかに動く敵を狙撃したこと。次の朝、その森のなかで同僚のコッツが頭を撃ち抜かれていたこと。おもいだす、年寄れど年寄れど若い日々をこそ。愚老とさえ名乗ることのない凡夫のなかに賢者がいて、賢者のかげに凡夫のある。

永遠の苦しみが人生そのものであって、そのことを悲嘆して総括しないスケールのある台本をもった映画。単なる老いは誰にでもおとずれて、威厳のある老いは誰にでもあらわれるものではないようでもある。沈黙するのが敗北ではないことをおしえているようでもある。

冒頭にみせた銀河の切れはしと無限の穀物畑のイメージは、そのまま無数のひとのうごめきのメタファーのようでもある。ひとはトウモロコシみたいに安く刈られる。無駄死とはいうまい、栄養にもなるから。ひとつのトウモロコシはひとつの人間でひとつの星のようでもある。近くでみればただの点で、離れてみれば畑か群衆か銀河になる。飛行機の窓からは畑のひと区画がみおろせる。のろのろいけば畑の終わりはしれなくてもトウモロコシのひと枝がよくみえる。