建国記念の日に鶴岡市のミニシアターで映画をみる。三宅唱監督の新作で、昨年末に公開されていた。

庄内地方を舞台にして、ロケも現地でしたというので、東北では鶴岡でだけロングランをやっている。それをみる。

東京、昼の部屋。女性がひとり。鉛筆をもって机に向かっている。まんじり宙をみつめている。電車の音が聞こえる。ふと鉛筆をはしらせはじめると、ノートをみおろすショットに変わる。鉛筆がハングルを書きこんでいく。紙をこする音が電車の音をうわがく。シーン1、海辺、後部座席、と字幕があらわしていく。とおい波の音が紙をこする音を塗り替える。

こうして主人公の脚本家(シム・ウンギョン)が書いた夏の海辺の逸話が劇中劇として映される。それを前半に位置づけて、後半におなじ脚本家が旅行して庄内におとずれる。前半と後半で夏と冬を対比させながら、筋書きは「よそ者」がやってきてその場所のひとと出会うというのを反復する。

穏やかでいい映画だとおもう。美しい景色がいくつも映されている。気だるさと奇妙な友情をほのかにみせて、あまり湿らせずに結末をひらいたままにしておくのが巧みだとおもう。

ただ…なにか猫に騙されたような後味があった。両手をあげて受け取るのを拒ませるなにかがあると直観した。映画がみせようとしているものはとてもうつくしく撮られている。なんのトラブルもなさそうにみえる。しかし冷たいものがざらりと肌をなでるみたいに強烈な不安を誘うなにかもそこには含まれているようだ。

そこで手探りに求めはじめることになるトラブルの根拠は、うつくしいものだけをみせたがる映画が、そこにふさわしくないなにかを抑圧(捨象)する力をはたらかせているに違いないことあたりにある。その抑圧されたなにかがオブラートのしたで叫び声をあげている。

これといって明確な欠点もなさそうにみえる映画につき、これから欠点を数えあげるようにいうことは、みな頭のおかしいひとの被害妄想だとおもって読むといい。それより読むのをやめて、映画そのものをみればいい。

とくに後半パートのこと、ひどく現実離れしている。それ自体はもちろん悪いことではない。とはいえ、ファンタスティックな映画のことをリアリズムに偽装して表示するのは、巧妙といえば巧妙だが狡猾といってもいいとおもう。

なにが現実離れしているか。あばら家のことを宿と呼んで経営するおじさん(堤真一)のことなら、別に現実におられてもいい。そのあばら家に女性がひとり泊まって、いろりをはさんでプライバシーもないところで寝かせられて、気に入って連泊することも現実にあってもいい。

ノートに鉛筆スタイルで仕事をしてもいい。知らない土地にフィルムカメラと文庫本だけもって出かけてもいい。ホテルの予約もとらずに飛び入りで泊まろうとしてもいい。ただ、こうして列挙するほど、ひざのうえに乗ったりポケットにおさまったりするあのみにくいスクリーン付き計算機のことを映画がつとめて捨象していることが気にかかる。それを抑圧する徹底した意志が不自然な力として全編にはたらいているのでは?

主人公の脚本家がおどろくべき反オンライン主義を徹底していることは、語らずにして語られている。それは彼女のもちまわる鉛筆、ノート、フィルムカメラの小道具群がよく代弁している。ホテルがどこも満室というのを映画が語るとき、ショットの後景にみえる多国籍の団体客とその身なり服装をみれば、舞台が同時代の現代に設定されているのはすぐにわかることで、彼女は異質な存在としてあらかじめ用意されている。

すばらしいことですよ、この時代に常時オフラインでいようとこころざすのは。それも、庄内の老人がそうというのではなくて、若い世代の、単に若いというだけではなくて東京で講演をする程度の地位をもつ脚本家がそうするのは。いや、いいんですよ、現実離れの空想を持ち込むことは。ぼくだって限りなくオフラインでいられたらこんなに嬉しいことはないとおもう。

厳しくみなければいけないのは、そのナイーブな時代錯誤の主人公が都会からやってきて、自然にひたって回復して去っていくというプロットのことで、それが古い古いロマン派の典型的な手法を無批判に踏まえていることだ。中心から周縁をのぞむまなざしが、おしきせのイメージをそこにいるひとに無邪気に投影してよろこんでいる…

都会からきた旅行者と、田舎であばら家に住んでるおじさんを並べて、まったく違うふたりがどこかおなじ素朴な波長を共有している、みたいに演出しているのが、もちろん不当表示になる。中心(東京)から周縁(庄内)をおとずれて、ふたたび中心へと還っていく、というシナリオがふたつを対等に映そうとする、それは無言の願望の投影になっている。偽善的にいえば「首都と地方はおぎないあっているよね」という詐欺まがいになるし、露悪的にいえば「おれがあばら家に泊まりたくなったときのために、おまえはあばら家にでも住んでろ」となる。

おお、まぎれもない美だったはずの映画をみてこんなことを書いてる自分がいちばん貧しいじゃねえかと嫌な気分になってきた。しかし奪う側と奪われる側の関係でしかないものたちがおぎないあうという夢は、なんというか、無邪気がすぎるな。

映画の最後、脚本家とあばら家の主人がそれぞれどうなったかおもいだすといい。ひとりはやってきたときよりも足取り軽く白い光に向かって踏み出し、もうひとりはパトカーに乗せられていった。おじさんのいかにも深そうな悲しみは言葉少なに示唆されたけれど、どうやらいろどりのためだけのパセリみたいに口もつけずに捨てられてしまった。開かれた結末といえば通るが、語るに値しないものは語らないという積極的な態度にもみえることがあった。

もともとが劇中劇からはじまる映画で、つまりは「これは虚構ですよ」という枠組みをふたたび前景化する準備はできていたはずなのに、後半になるとその枠組みは霧のなかに忘れられてしまった。結果として、あまりにパワフルな俳優たちの技術と存在感が、まるでこれがリアリズムかのような誤読を招いた。台本は空想をこころざし、撮影と演出は反空想に向かった。

しかしこうした流言には惑わせられずに映画をみてくださいね。たいへんよい映画であることはたしかで、とくに後半で焦点化するふたりの俳優の所作とことばづかいの当意即妙をつたえるのがよい。少ない音でたしかなハーモニーを発展させるサウンドトラックもよい。前半でみせられる海が森からつながっているところを引きの画でしめすのもよい。

前半と後半がわりあい強引に併置されているのは、よしあしある。いいところを指差せば、接続に論理はいらなくて、とんとんと置けばひとりでにつながりが立ち上がるのを証明していること。論理過剰が魅力を遠ざけるのと反対の効果はありそうだ。残念なところは、前後半を統合する力にとぼしさがあって、形式的処理が中編二作のごとく残されたあたり。語りをふくらませることのできる足がかりは無数にあったようにおもわれるのに、表題にひきつければ旅を語って日々には踏み込まなかった。うん、日々ということばの添付があまり意味をもたなかった。