北四番丁のミニシアターで映画をみる。デビッド・リンチの没後一周年で、一週間だけの復刻上映をしている『インランド・エンパイア』をみる。06年公開で、作家にとっては最後の長編作になる。

真っ黒い闇がある、そこに鍵穴ばかりの窓から細く激しい白い光が差し込む。闇のなかに映画のタイトルが黒く浮かび上がる。巨大な持続低音がおどろおどろしく鳴る。

ガサついた質感の白黒のショットが、蓄音機の針のしたを疾走するレコードを映す。馬の走る音かなにか、運動を感じさせるものをにおわせる。しかし変わらずまがまがしい効果音。

アパルトマンの廊下から室内、中年男性と娼婦。脱げという男、脱ぐ女。古いフィルムの抜粋にみえて、映像も録音も大時代だ。モザイクがふたりの顔をぼやかしてあるのは、現代の側からの介入だ。

ここまでがかろうじて記憶している語りはじめ。そのあとは始終とりとめがなくなる。

かろうじて線形にとれる部分をあらすじに抽出したり、あらすじがあると信じて難解さにいい及ぶよりも、実験イメージのモンタージュとおもえばいいのではないかな。造物主としての作家は限りなく介入を控えて、イメージの群れをただならべるにまかせているようにみえる。

ナンセンスをこころざしたもののなか、語るに落ちているものはたしかにあるようだ。こう証明しきっているようにみえる。白人作家によるナラティブはもはや常に不成立だ。ナラティブの成立はかならず欺瞞を伴う。ナラティブの成立しない悪夢のモンタージュを完成させることだけが残された道で、それはこれいちどきりしか成し遂げることはできない…

エンドロールで女性たちの踊りをみせて、ニーナ・シモンのトラックが流れた。類似作ではないところで、ヴェンダースがおなじ歌手を引用して愉快でない演出をしていたのをおもわず重ねて、白人作家がなんらかのエモーショナルな効果をこのリズムに担わせたがる衝動はいったいなんなんでしょう、と苦笑いをする。

機動力の高いカメラが主演俳優のみにくい姿と表情をとらえて隠さないところのけったいな映画。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』とおなじ、ナンセンスであることだけが目的の作品で、それを聖化してしまえばカルトというのは褒め言葉というよりほんらいの侮蔑にかたむくのでは…