和歌山県白浜市に偉人の記念館をみにいく。
南方熊楠は明治から昭和をいきた粘菌学者で、同学年に夏目漱石と正岡子規がいる。学者とはいっても公職にはひとつもつかなかった。はやいうちに東大を落第して、アメリカとイギリスを遊学したあとはいまの和歌山県南部にしりぞいて原生菌の研究をもっぱらする。すぐれた博覧と多才をやがて破滅するだけの大日本帝国とその官僚主義のほしいままにさせないで、肩書と無縁のところで好奇心のための研究に没した。かっこいいですよね。
和歌山にいこうと決めたとき、はじめに決めた目的地は紀伊半島の最南端を踏みにいくことで、その道中の寄り道をえらぶときに、高野山、熊野古道、南方熊楠の記念館とあげていって、熊楠をえらぶことにしたのでした。そうと決めるまではなんとなくの偉人としてしか知らないでいて、印象は空海とか道元につらねて、東洋の伝統をふまえた古い意義でのおおきな知性の最後のひとつこそ熊楠かしらと先入観にもっていた。
水木しげるの『猫楠』は、猫の視点でながめた熊楠の伝記になっている。外国語にならんで猫語もはなせるという話、自由自在に嘔吐できる特殊体質の話、全裸ですごしていたらアリにナニを噛まれた話、警察署長を投げ飛ばしたのも酒のうえのことといって放免された話、なんかをおもしろおかしく書いて、たいした伝記漫画の傑作だ。
講談社学芸文庫にある、鶴見和子『南方熊楠』は八十年代のはじめにそれを書かせた動機が熊楠への関心の低さに根ざしていたとおもわせて、一般向けの文体のなかに学会向けの目配せをはらむのにつまずきもおおく、あまり収穫にはならなかった。河出文庫で全集にある書簡集からの抜粋も読んだ。ひろく渉猟しきったわけではないけど、水木しげるの漫画がとにかくおもしろくて、それひとつをなんど読んでもあきない。これらを予習にしておとずれる。
お昼ごはんを済ませて午後はやくに見学するくらいの見立てでいたのが、ゴールデンウィークの渋滞でそれよりもずっと遅れて、着いたのは三時前だった。お昼もいなり寿司を車内でかじるだけで済ませた。モダンな建築にみちびかれて入口をはいると、受付で人数限定のバックヤードツアーに参加しませんかといって、それがちょうどこのあと三時からという。はじめてやってきてまだ展示をみてないけど、それでも参加して構いませんかねといって、ぜひというので名簿にサインした。
受付前のホールにやがて学芸員さんがやってきて、ツアーの枕をなさる。このツアーは記念館にとってあたらしい実験的な試みで、主催する側としては至らないところもありますがどうぞよろしくとおっしゃる。てっきり定期開催のもよおしとおもっていたところ、たまたまここに居合わせたのがめったにない幸運と知る。そうでなければ予定よりも遅れてしまったのに落ち込みかねないところが、転じて福となる。
非公開の資料庫をまずみせていただいて、そこは六畳もないような狭い部屋で、入口からのぞけば全景がみえる。ほとんどの資料は田辺市の旧邸宅、いまの顕彰館により広いスペースがあって保存されていて、記念館の所蔵品はありったけ公開することができているから、控え室くらいのひろさで資料庫は十分なんだという。
そうはいっても非公開の資料というのがあるうち、あんぱんの食べすぎで歯を悪くして船旅で和歌山市まで治療しにいったという逸話のその虫歯が保存されているのを科学サンプルみたいに包装してあるのをみせてもらう。論文を載せた雑誌「太陽」の表紙に書き込みがしてあるのもみせてもらう。ガラガラヘビの尻尾とされているものをみせてもらう。小学生のおとこのこみたいな収集癖にもみえて、故人が体系立てて遺したものはもともと分類がきちんとしてそれなりの完全性があるから、資料の散逸には悩まされないようすときく。
もとの記念館を増築して、いまは新館に展示室を移して、旧館は文化財として残しているといううち、渡り廊下をとおって旧館を見学させてもらう。そこには重々しい扉の貴賓室というのがあって、防虫剤のにおいがおばあちゃんの古い部屋をおもいださせた。ここではアンモナイトの化石集を拝見して、その化石のひとつをめずらしいからといって知人から借りパクしたときの書簡で「悪ければ返す。よければ頂戴す。礼には寿司、鶏、酒に別嬪。でもいまは金がないからちょっと待って」といくぶん迷惑な破天荒さ、でも文体のユーモアは親密さを伝えていて、おもしろい。
はじめ昭和天皇行幸のおりに設計されて、そのときは結局つかわなかったものが、のちに二代の皇太子と、秋篠宮一家の来訪をもてなした。秋篠宮さまは公務のほか私的な家族旅行でもあわせて三度おとずれて、さてみなさんにいまかけていただいているソファのうち秋篠宮さまがおすわりになられたのはどこでしょう? 実はその席なんです、と学芸員のミムラさんがいって、ぼくの向かいの位置を指さしたら、そこにかけたおばさまが「キャア」といって弾んだ。
旧館のりっぱな螺旋階段をとおらせてもらって、旧玄関のむかいにある小木は安藤みかんの木で、旬にはおおいに実ってボトボト落ちてしまうほどという写真を拝見する。いまの季節は青いつぼみがスターウォーズのドロイド兵みたい顔をしているのをみる。それで限定ツアーはおしまいです。申込みのときにもらったアンケートにお礼を書いたら、南方曼荼羅の図像のステッカーまでいただいて、ほんとうのおしまいです。
まだみていなかったメインの展示室をひとまわりすれば、平家の怨念がこもったような模様をその腹部がしているというヘイケガニに、熊楠の手が墨で恨み顔を塗っていっそうユーモラスに強調したというおふざけの標本をみる。ミシガンの留学生サークルのために20歳の熊楠が書いて回覧させたという個人新聞をみる。フロリダで下宿したという食料品店の中国人店主と、それぞれの一張羅かとおもわれるきれいな服できめて撮った大時代の写真をみる。
そこからの見晴らしは白浜随一だという屋上の展望台は暴風で閉鎖になった。厚い雲がかきくらしはじめて、もう閉館の時間になる。二時間弱の見学時間をおおいに満喫する。