金曜日のレイトショーで、濱口竜介監督の新作映画をみる。

住宅地の空、土を焼いた壁、長椅子でタバコを吸う年のはなれた白人女性がふたり。遠くから騒動の声があがる。働き盛りのほうの女性が木陰を抜けていくその背後を手持ちカメラが追いかける。中庭で老人をみる。若い介護士をとがめていう、手首をつかんではだめ。手のひらをやさしく添えてあげて。芝生に落ちた手作りの指人形をひろいあげて、老人をやさしく導いてやる。

マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は老人福祉施設「自由の庭」の責任者で、ユマニチュードにもとづいたケアを施設に普及させようとしている。120人の職員のうち、半分までにユマニチュード研修を受講させることができた。もう半分のスタッフにも研修をあたえようというとき、未受講のスタッフたちの反発は手厳しい。ソフィーはベテラン看護師の立場からこういって批判する。もともと人員不足の現場から人手を奪って研修に駆り出して、リベラル風の理想主義を吹き込んで返してよこす。そして現場に断絶を生む。ユマニチュードの技術を学ぶとは、伝統的な技術こそ軽蔑に値するとおしえることなのか?

ユマニチュードとはこういうものだ。認知症の患者には記憶も感受性もみな失っているのではない。時間と空間の感覚が異なっているありさまを狂っていると断じるのは、健常者の側のもののみかたによるものだ。目をみてやさしく語りかける。いきなり腕をつかみあげない。手や顔に触れて恐怖を感じさせるよりも、肩をさすって安心をあたえながら、いまなにをしていますよと語りかけつづける。寝たきりにさせるよりも、積極的に立ち歩くことをうながす。

寝たきりの患者が増えれば、現場の労働力は逼迫する。医療費はかさむ。その反対に、ユマニチュードのいっけんスローなやりかたは、寝たきりの患者を増やさないことによって、人手不足と資金不足を改善することができる。この逆説をマリー=ルーは信じて「自由の庭」を改革しようとしている。こういうわけだ。

しかし現実のマリー=ルーは、現場からは反発を受け、取締役会からは経費削減の圧力をかえられて、中間管理職の典型的な苦悩に捕まっている。なまじ福祉への情熱があるだけに、出口のなさそうな一本道をバーンアウトに向かって突っ走っている。すくなくとも、彼女のやりかたに共感して支える同僚たちは、彼女に頼っているからこそ、過労による破綻におびえている。

あしたは絶対に出勤するなよ、と釘をさされた帰り道でもマリー=ルーは仕事のことをかんがえるのをやめられない。睡眠薬を飲んでベッドにはいろうとしたとき、スマートフォンへのメッセージで入居者のひとりが永眠したことを知る。もう耐えられないといって退職希望を伝えた若いスタッフとのやりとりがフラッシュバックする。マリー=ルーがそれを認めさえすればいつでも限界となりうるとき、彼女は公園でのひょんな出会いからテアトル13をおとずれて演劇をながめることになる。舞台のあと、演出家の真理(岡本多緒)はマリー=ルーを誘い出す。長い散歩と二か国語の会話が意気投合させて、マリー=ルーは夜間病棟に真理を誘う。

と、ここまでが長い序章で、ふたりの「マリー」が出会うための導入部となる。ひとりはフランス語で演じて、もうひとりは日本語で演じる。それで会話が成り立つための条件付けとして、それぞれ早稲田とソルボンヌに留学していたことが語られている。相手の言葉をどれだけよくわかってるかに関係なく自分の言葉で語りつづけるのは、それが感情をもっともよく表現するからだ、というのは、舞台俳優の吾郎(長塚京三)が「どうしてそんなにフランス語ができるのに日本語で演じるのか」と観客に問われて応答したことでもあった。ぎこちない言葉遣いを演出することによって言語を日常用法から劇的用法に飛躍させるのはおそらく監督の十八番でもあって、日本語を外国語のように語らせることの強烈な緊張感は、ふたりの最初の長い会話にもっともよくあらわれていた。

病を抱えて死に向かうことをあつかって、認知症であったり癌であったりするその病と終末に向けた緩和ケアのことをおだやかに描いて、悲嘆よりも楽観に傾いて気持ちのいい映画。足の裏をマッサージして仲を深める、というちいさな場面が、それがなければ単に思弁的な記号の操作だけに陥りかねないところを救うのがよかった。南仏への公演にひとり旅立つ吾郎が真理の部屋をおとずれて、日没の赤い光を浴びながら役者の冥利を遠回しに、手短にだけ語る場面がよかった。わたしはたのしかったですよ、と吾郎は語った。

断定調のメッセージはいっけんなさそうにみえて、ケアとはこうあってほしいという願望が映画にひとつのメッセージを強く語らせた。激しい画面の動きも暴力もなかったようにおもい返せば、よくもわるくも安楽した映画といえる。

緊張感が画面を支配したのは、こんなにあわてて歩いたらおじいちゃんが転んでしまうかもしれない、という恐怖がみえたときのことで、転ぶことがそのまま死を意味しかねないとき、歩く老人の姿はおびえさせる。死を招き寄せておそろしい。しかしそれを嫌って入院ベッドに彼らを縛りつけるのは「老人は寝たきりにでもなってろ」という願望がそうさせることでもある。介護施設がもと精神病院だったことを映画が語っていたことをおもいだすと、この願望の先に活路はみえるはずもない。カメラは歩く老人をねっとり追った。