夏休みのお楽しみをひとあしはやめにと一週間の北海道旅行に出かけていきます。一日目です。

五時に起きて三陸道で仙台空港へ向かいます。夏の朝はすっかり明るく平日の混んでいない仙台への道を越えていきます。空港のデイリーヤマザキで百円のハンバーガーをふたつたべて腹ごしらえして、保安検査を抜けたらすぐに搭乗です。並ぶ列のなかには背筋のシュッと伸びた自衛隊関係のひとがふしぎとおおくみえます。

離陸から着陸まで寝通しで気づけば新千歳に足をおろします。寝ぼけ気味で鼻水をかみかみぼうっとしているうちにパートナーが預け入れ荷物を受け取ってきてくれます。空港アクセス線へ続く廊下に釧路の観光鉄道ノロッコ号のポスターをみつけたら、おたがいスローになっているときにノロッコさんと呼び合う奇習がたちまちできあがったのでした。

空港アクセス線で札幌へ向かいます。別路線の運休情報をみれば、貨物列車が熊と衝突したことが原因といっているのを知って顔を見合わせます。札幌まで半時間強の道のりには北広島市があって、ファイターズの新球場がみえないかと目を光らせて、それは見つけられないまま通り過ぎてしまったのでした。特急でもないのに運賃はお高めで、改札を出るときのスイカの表示におどろきもするのでした。

札幌ではまず南北線で中島公園駅へと下って、宿泊予定のホテルにスーツケースを預かってもらいます。クインテッサホテルという宿で、細長く高い天井のあるロビーに自然光がふりそそぐさまはゴシック教会みたい。忙しくない朝のホールのソファに腰掛けるとモーツァルトのバイオリンソナタが薄くかかっているのが聴こえてたちまち無心をえられます。

お昼まで小一時間の間があるのを、ホテル近傍のモダンなカフェで過ごします。ジューン・コーヒー・サッポロというお店で、アイスラテをふたつに、アップルパイとチョコベーグルをいただきます。歩道に面した雨戸ガラスを開け放ってすこし風が吹き込んでいます。ペン絵を描いてひまつぶしとします。すぐそこにみえるローソンに一服しにいけば、若い男性モデルさんがおふたり、これからはじまる一日の撮影のことで管をまいているのがきこえます。

お昼の予定にあわせてタクシーで苗穂(なえぼ)のサッポロビール園に向かいます。すすきのを横切って、豊平川の西岸土手をするすると抜ける景色をしばしぼうっとたのしみます。ビール園で降りると、芝生に腰をおろしてレンガ館をスケッチしているひとがみえます。観光客はそこここにみえて、それでいて苦しいほどの雑踏のないのに落ち着きます。

Kさんはパートナーの仕事仲間で、二年前に釧路に拠点を移すというときにぼくにバイクをゆずってくれたひとです。いまはもっぱら札幌にいるということで、三人でサッポロクラシックとジンギスカンのランチをいただきます。肩肉、モモ肉、ロース肉と三種類のラムをいただけば、豊かな香りが口から鼻に抜けるのがいかにも新鮮なお肉のありさまで、たいそう満足するのでした。

パートナーは仕事の進み行きとどことない寄る辺なさのことを話せば、Kさんは現在の満足とこれからの前向きな展望のことを話して返すのをききます。それはおなじ励ましにしてもぼくがするよりもKさんのするほうが彼女にはより手触りのある元気となって響くかときこえます。こうしておいしく静かなランチの時間なのでした。

Kさんは平日の仕事のあいまを縫ってお昼を同伴してくれていたということで、ゆっくり歩いて彼の職場のほうに向かいます。食後になっておなかの調子がさわがしい様子のKさんをすこし心配して、肌寒さがその原因かというので、リュックに詰め込んでいた羽織りを貸せば落ち着いたというのに安心します。

札幌駅のちかくでKさんとわかれます。すぐそこに北海道大学のキャンパスがあるので、ふらりと散歩してみましょう。立派な門を抜け林のなかをとおる道には、学生の往来のほかに団体観光客のツアーの姿もみえます。せせらぎがとおっているところでは、長い木の枝をのばしてもうひとつの木の枝を流れから引き上げようとしている若者ふたりの姿がみえます。実にのんびりしたものです。ベンチがあれば腰掛けたいというところ、手頃な場所にそれはみえずに、アカペラの練習をしている学生らのそばをとおりぬけて、クラーク会館という建物でひとやすみします。三十分ばかりやすむうちに、これからどこに出かけようかと作戦をたててからもういちど出かけます。

すこし歩けば赤れんが庁舎というのがあるらしいといって、たいした予備知識もたずさえずにおとずれてみることにします。北海道大学を南に出て、札幌駅の高架下を工事しているところを通り抜けていけば、赤れんが庁舎の裏側に出ます。裏側から近づいていけば、車椅子のためのスロープのある出入り口がみえて、そこにある自動券売機で券を買って入館します。あとからわかることは、ここはほんらいは出口にあたるところで、正規の入口はより立派なものがこのちょうど背後にあるのでした。

順路の出口にあたる入口からはいってすぐに樺太関係資料室というのがあるのに誘い込まれて見物をはじめます。その展示室は中国の、ロシアの、日本の、オランダの、フランスのなにがしがそれぞれ樺太を「発見」したりアイヌのリーダーが「乱」をおこした歴史年表があって、それは末尾に近づくにつれて江戸幕府そして明治政府が「土人」という観念を発明して定着させたことを報告しています。その「拓殖」の歴史の遺物のひとつに、昭和13年に樺太庁の制定した樺太島歌の原詩が掲示されています。山田耕筰が作曲したといいます。展示のふところの注釈はこういっています。和人の植民地主義を象徴する詩の立場はこんにち通用するものではないが、樺太和人の当時の世相を反映する資料として展示をおこなっています、と。

ガスがとおり電気がとおり鉄道がはしり、豊かな森林資源を背景に紙工場を経営した入植者たちの街はたしかにこれは戦前の日本の町並みだと写真をみて判然させられるものでありました。豊原、大泊といった古い街の名前には、ユジノサハリンスク、コルサコフとロシア語によるやはり古い街の名前が併記されています。たくさんの街をつないで鉄道が走るのはおおきな島の西岸、タタール海峡側のことで、テルペニア湾にのぞむ東側の土地は未踏のツンドラ地帯として入植を避けたこともわかります。その湾の向こう側には海豹島とかつて呼ばれた小島があって、それは夏目漱石『彼岸過迄』の序章で森本がそこへ冒険したとうそぶく様子が描かれたものです。地図と地理をしれば、その海豹島への冒険というのがどれくらい荒唐無稽だったかということがよくわかります。小説の森本は主人公の前から姿を消したあと満州から手紙をよこして、おまえもこっちにこないかと誘うのでした。

第二次世界大戦の最末期にソ連が参戦すると、樺太の国境を越えて侵攻するソビエト兵士があり、最前線へと入植した和人らには玉音放送のあともなお続く受難があったのでした。樺太戦といって8月25日に全島が占領されるまで戦争は続きます。樺太の和人のほとんどが国策に沿って入植した「よそ者」であったことをおもいだせば、先祖伝来の土地を蹂躙されたごとくの悲壮感をもってこれを語ることはできなくて、これを「本土最後の地上戦」と呼ぶのには危うげな印象がつきまといそう。実際、展示はこのナイーブな表現を避けていたはずで、ウィキペディアの歴史記事が「本土最後の地上戦」と修飾しているのをあらためてながめるときにだけ、きまりの悪い顔をせざるを得ないのでした。

悲劇があったことはたしかであって、たとえば電信所あるいは病院に勤めていた女性たちがソビエト兵からの性被害からあらかじめ身を守るために集団自決したというような話を認めると、これは嘆かわしいものです。生殖能力と命の重さをまっすぐにむすびつけて人頭を管理しないと気のすまない国家道徳の野蛮さがみえます。樺太の「拓殖」にリスクがないはずがないとかれらは知っていたはずで、それを承知のうえ、国家の要請に積極的にこたえて引越して和人の街を築き上げたひとびとの文化であったから、そこにある反戦気分は本土よりもいっそう弱く、好戦的な気分はいっそう強かったでしょうか。

樺太にいたひとびとは、和人国家の命令にふたたび応じて北海道に脱出しようとして成功するか失敗するか、そうでなければ樺太で命を捨てるか、思想を捨ててロシア人の街で生き直すか、迫られたようです。死人に口はなく、生き延びたひとびとも被害と加害の両方をあるいは担わざるをえない立場におかれて、多くを語り残すことは簡単でなかったはずに違いありません。一貫して樺太に住みながら、植民地主義によって日本とロシアに分断されて、あまつさえ戦争協力にまで駆り出されたアイヌのひとびとの声は、それよりいっそう聞こえづらいものとなりそうです。よくもわるくも語りづらい歴史がこうしてあるときに、この赤れんが庁舎の樺太関係資料室は、被害者意識と加害者意識のどちらにもかたむきすぎないように努めてバランスをもちながら歴史をおしえるようにみえて、充実感を得られたのでありました。建物のほんの一隅の資料室でいて、二時間ばかりも飽きずに展示をながめていたのでした。

赤れんが庁舎の残りの部分、というよりほんらいであれば主となる展示をみに階段をのぼったところで、そこがメインゲートであったことと、いまみてきた資料館はどちらかといえばおまけの部分であったことをおそわって、逆順で本館の展示をぶらぶらながめます。だいたい満足したときにはパートナーの姿を見失っていて、おみやげやさんでアイヌの意匠を使った小銭入れをひとつ選んで待ちます。いつもの小銭入れは、三陸道の料金を払ったときにポケットから出したまま、仙台空港に停めた車のなかに置き忘れてしまっていたのでした。

外に出れば七時過ぎながら、まだほの明るい感じのする夕方の暮れかけです。ヤブ蚊にすこし噛まれながら庁舎の敷地を出て、夜ごはんの算段をします。スープカレーかラーメンかといって、あんまりたべたことのないからこそスープカレーにいってみようと決めて、パートナーが選んだ「しゃば蔵」というお店にいってみます。ビル街の地下のお店で、賑わっていても待たずにいれてもらうことができました。

野菜たっぷりスープカレーというのがプレーンな料理で、野菜を九種にするか十五種かを決めたら、スープの種類と辛さとトッピングを選ぶようになっています。ふたりして「野菜十五種、羊骨香味スープ」として、ザンギトッピングをひとつつけてわけることにです。辛さはひとつを控えめに、もうひとつを辛めとします。

で、これがほんとうにおいしいスープカレーでした。スープカレーとはこんな料理なんですね、というのがはじめてわかった気がします。素揚げの野菜はカボチャにしてもゴボウにしてもマイタケにしても、かじるごとに豊かな風味が立っておいしい。それが羊骨スープの香りと合わさって鼻をくすぐるのもたまりません。そうやって十五品もある野菜をひとつずつ堪能できるわけで、スープとごはんもあわせてひとつの定食とおもえば、なんて贅沢な料理だろうと嘆息ものです。いちばん控えめな辛さにしていても汗ならじわりとかいて、食べながらも止まらない食欲はごちそうさまでしたというときまでにはすっかり満たされました。

中島公園駅まで戻って、持ち忘れた点鼻薬といっしょに使い切りのバスソルトを調達してからホテルにもどります。十一階建ての最上階の角部屋で、おおきな湯船のあるゆっくりした部屋です。間接照明の色をカラーパレットで選べるというふしぎなタッチパネルが備わっていて、橙色にしようとしてもかならず黄色か赤色にずれてしまってなかなか選べないのをおもしろくおもいます。