漱石を読む。1912年から13年にかけての連載小説で、発表順にならべると『彼岸過迄』と『こころ』のあいだにあたる。

梅田の停車場ステーションを下りるや否や自分は母から云い付けられた通り、すぐ俥を雇って岡田の家に駆けさせた。(5)

実家ぐらしの若くひょうきんな設計技師、二郎がはじめの主人公となる。大阪をおとずれたのはそこで待ち合わせて、おなじく東京から観光旅行をしにくる三沢と高野山に登るためだった。

岡田はかつて二郎宅で書生をして、いまでは大阪で勤め人をしている。二郎宅に出入りしていたかねという女性をめとってある。二郎の父母が口利きをしてまとめた縁談になる。五年して子供ができないことが気がかりだと二郎にわずかに悲愴めいて語るが、朝顔と金魚のある庭をかまえてじつにおだやかな夫婦暮らしをしている。

折しも二郎宅の下女、さだを嫁がせようという縁談をこんどは岡田が口利きして、佐野というその相手の写真を東京に送ってよこした。母が二郎にいいつけたのは、岡田と都合をあわせて佐野の様子をみてこいというものだった。

とんだ不具合もないだろうと彼自身は未婚であるところの二郎がみなせば、貞にとっては会ったこともない相手との結婚はするすると進むことになる。二郎はそれに無責任な気がするのと同時に、それこそが結婚をとりまくおおくの経験の本質であることもどこか了解できるのだった。

大阪着の連絡をなかなかよこさない三沢は、生まれつきの弱い胃を酒でいじめて大阪につくなり入院していたことを二郎は知る。おなじ病棟の「あの女」の病状に三沢は因縁があると語る。また「あの女」がよく似ているという娘で、三沢の父が世話してやった結婚に失敗して心を病んだ娘の思い出を語る。

三沢の見舞いをして高野山へのぼる機会を失っていたところ、母と兄夫婦が大阪へやってくる。兄は気むずかしやの学者で一郎という。その妻は直という。母は一郎夫婦がどこかよそよそしいのをみて、愛嬌のない嫁とみくびるように心配している。

おもいがけない家族旅行がはじまったうえ、気むずかしやの兄が二人きりで出かけよう、ゆっくり話をしようと誘ったとき、二郎はすでに嫌な気配がしていた。はたして兄は彼の夫婦関係の不調のことを述べるが、その理路はのっけから飛躍してあり

直は御前に惚れてるんじゃないか(140)

といいながら、不倫の証拠など二郎にあるはずもなく、あきらかな被害妄想をいっている。しかし学者の自負は弟に倫理観をたしなめられて納得することを許さず、

実は直の節操を御前に試してもらいたいのだ(156)

御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊って呉れればいいんだ(158)

このようにして兄の権威は弟の嫌悪感を握りつぶして有無を言わさず使役した。弟は居心地を悪くして兄のいる実家を出てひとり暮らしをはじめる。

ほかの家族は兄弟の秘密の会話を知らずに、それを気むずかしやとひょうきん者の些細な葛藤とみくびっていた。しかし別離のあとなお一郎は書斎にこもりがちだ。妻を殴る。嫁に愛嬌がないとぼやいた母さえ、長男にこそ問題があると悟る。

二郎は兄とのごたごたのなかに一皮むけた様子で、あたらしく妻をめとることになった三沢がお前もどうだと機会を作ってくれるのにあずかりもできて、彼の未来は明るい。しかし彼の去った実家にはますます被害妄想を深めるひとりの男がおり、家族がまっしぐらに崩壊へ向かっていると予感すると、気分は晴れるはずもない。

兄の同僚で学者のHさんにおもいきって相談すると、はじめHさんは悪いことなどあるまいと笑っておられた。三沢も笑ったが、二郎は気が気でなかった。そのHさんから、いよいよ異常を知らせる長い手紙が二郎へ届く…。

と、あらすじの種明かしとなってしまっているのが興醒めかもしれないが、新潮文庫の裏表紙にははじめから兄の猜疑心を中心にした小説と書きこんである。『坊っちゃん』とか『こころ』ほどの人気はなさそうだけれども、おなじ手の書いた古典のことだ。結婚をめぐるいくつかの側面とおもえば主題は平凡にして、それをみごとに語って飽きさせないのが達人技だ。

書斎にこもって知的であることに誇りのある一郎の自尊心はみなにとっての誇りでもあった。二郎はめんどうな兄とおもいながらも、自分より頭がよくできていることに敬意はもっていた。むろん父母にとって自慢の長男だった。

疑いの中心に押し出される直にしても、妻なりの精一杯の敬意をかたむけている。できる限りのことをしたところでわたしのほうが比べようもなく馬鹿だから気に入ってもらえないのだとさめざめ打ち明ける。

しかし一郎の猜疑心は、それがみずからの高級な論理を満足させる理屈でなければ、裏があって隠しているに違いないと決めつけて飽きない。殴られたら抗議するべしと道理をかまえた男は、妻を殴って抵抗もされなかったことで発狂する。

知識をもつことの悲劇といえばそういうことはできるが、生まれつき賢く創られたことの罪というよりも、凡夫に知恵をあずけるとろくなことにならないという話にもみえる。学者という肩書の飾り物が家族にそれをいいづらくさせていて、たしかに誰もそれをいわないけれども、さしずめ屁理屈はひとを不幸にするというばかりの平凡な話だ。

時代の枠組みにもうすこし寄り添っていってやると、西洋近代型の思考法はそれを徹底すればすべてを破壊するということをみごとに小説で予言しているともとれる。眼の前にあって触れればあたたかいこの豊かな世界を切断し、分類し、解析すれば、恣意的な論理を武器にして無限の戦争を起こすことができる。それを戦おうとした一郎は、彼だけが自壊するならまだしも、家族を道連れにしてみな不幸にした。生身の世界のほうでは、おなじ恣意は一郎よりもいっそう悪く、目的のあるところにはかならず大量殺戮と焼け野原があった。

ひとり神経症になって家族に迷惑をかけるくらいならまだましで、どうしてあのひとはこうなっちゃったんだろうね…と語り合えば悲劇には傷を癒す効用もあるが、その「どうして…」というのに答えるなら、そもそも「あのひと」はもともと小人物だったので、としかいいようもない。小人物に家族を率いさせないことは重要で、対処を誤るとチョビ髭だったり丸メガネだったりが家族どころか国民国家を率いてたいへんなことになったりする。

小説の中盤、高齢の父が家に客を招いてうまくない能を一曲やるところがよかった。演目は「景清」といって、源平合戦に敗れたあと盲目の乞食になって生きながらえた平景清がかつての栄光を語るらしい。能は下手でも、余興にからめてある後輩の話をする。その男は学生時代に下女相手に深いかんがえもなく婚約を申し込んだ。若さの愚かさのことで、一週間後には謝ってその婚約を撤回した。それきりになっていたその相手の女と数十年後におもいがけず出会いなおしたら、女は盲目になっていた…。

父は煩悩と情のもつれが必要以上に波風を立てたちいさな冒険の話とだけしてこれを片付ける。たしかに煩悩の話で、切なくみえても笑ってすませられる。もとより笑ってすませるしかない話だ。しかし兄はそれを笑ってすまさない。男の愛と女の愛を分類して、進化論を根拠にして煩悩の本質を論証する。むろん誰もそんな話はきいていないとわかれば、そのほうこそ軽薄だと自分を棚にあげて蔑んでいる。空回りの議論を読む立場からすれば二重に滑稽なのがおもしろい。

仏教のことばに無分別という知恵がある。この認識は正しいと予断するうぬぼれのことを分別智という。誰もがそこに陥りやすいうぬぼれを戒めて、恣意を超えたところにあるありのままの真理を直観せよと命じる。これを無分別智という。

分別があればよく、無分別であれば軽薄だというのは本来の道理とは反対になっているのをおもいだせば、一郎はまことに分別の煩悩に満ちているから、いくら周りが賢いといって持ち上げたり、彼自身がそれを自尊心におもっていても、これは知識人の悲劇ではなくて凡夫の凡劇となる。そして凡夫の凡劇だからこそ、惹きつけるものがある。

新潮文庫の裏表紙にもどれば、そこにあるあらすじは「学問だけを生きがいとしている一郎」と紹介するけれども、それを生きがいとおもって自尊心を糊塗してしまうのが、平凡なミスとなる。学問といえば通りはいいけれども、仕事だけが生きがいであっても、育児だけが生きがいであっても、破綻の陰はいずれきざしている。

生とは苦しいものであるのだから、生きがいといってそれを合目的にととのえようということがすでに恣意であり、分別であり、うぬぼれであるということ。

鈴木大拙はこういった。西洋的知性のはじまりには、自分を世界から切り離す処置がある。それをすれば世界はよくみえるようになるという。しかしそれは自分を世界から疎外してもある。それが孤独のはじまり、争いのはじまりである。

分別智はあらゆる論理を正当化することができる。そのことこそ悪性で、正しさのことで言い争いがはじまりそうなときはまず一呼吸おいて、それがあるいは恣意で、うぬぼれで、孤独のはじまりであることをおもいだそうとするのがいい。

正しければ孤独でもいいというのはひとつのかんがえかたにはなる。小説に救いがあるとすれば、凡夫の騒ぎを騒ぐ一郎は、正しくはありたい、孤独ではありたくないとわがままをおもわせているところだ。孤独でいたくないからひとは歩み寄るという道理をつかみとる彼の姿の気配なら、書かれてはいないがなくもない。

二郎が一郎に呼び出されて小言を食っているに、口には出さないながら嫌気はだんだんさしていて「学問をして、高尚になり、かつ迂闊になり過ぎた兄(273)」と評させているのは、ひどくおもしろい。高尚になれば迂闊になるとは、あんまりみごとな警句だ。

のちの『こころ』がそうであったのとは異なって、語り手の「自分」であるところの二郎には屈託がないのに、彼にはどうすることもできない動機が彼を悩ませる話で、そのことを不条理とせずに読むのはむずかしい。息苦しさを逃れて家を出る二郎とおなじ経験なら、誰もがそのことをなにがしかの象徴的な別離として記憶しているのではないか?

そして離れてこそわかるあの息苦しさのことをわずかな嫌悪感とともにおもいだせば、そこには正しさよりも「そうなるしかなかった」と不条理だけが残る。永遠でないものはそのことゆえに永遠であるとわかる。

やるせはなくとも不条理こそが切実で、充実した読書をする。